昼は吉右衛門さんで、夜はピナ


この日は、昼間は京都・南座に秀山祭三月大歌舞伎を、夜は映画「pina」を観に行きました。

 

秀山祭の演目は、元禄忠臣蔵、御浜御殿綱豊卿、猩々、熊谷陣屋で、熊谷陣屋に中村吉右衛門さんが

 

出演されていました。

 

映画「pina」の方はブッパタール舞踊団のダンサーへのインタビューや、在りし日のピナの映像を絡ませ、

 

ピナの足跡その世界観に迫った映像作品でした。

 

この二つを拝見して思ったことは、僕は日本人でありながら歌舞伎よりもピナの動きの方にずっと親近感を

 

感じたということでした。ただ、僕はピナが大好きですし、僕自身のダンスの歴史が西洋のメソッドから

 

入っているということもあるため、そのように感じるのはある意味、当然かもしれません。

 

しかし、その日に僕と同行した妻も同じように感じたと言いました。彼女はピナをほとんど観たことが

 

ありませんし、また彼女のダンス経験は小、中学校の体育でのダンスぐらいなので、

 

ピナやダンス経験の有無だけが歌舞伎とピナの親近感の差を生んでいるのではなさそうです。

 

この親近感の違いはどこからきているのでしょうかね?

 

まあ、映画と舞台の違いや、また時代性の違い(ピナは1970年代からの活動で、熊谷陣屋は1751年初演)、

 

はたまた、日本の近代以降に於ける西洋化政策による身体観、それによる自国文化の断絶等、

 

様々な観点から議論出来そうですが、まあ、それはさておき、そんな親近感の違いはありつつ、

 

僕にとってはピナ同様、歌舞伎も大変興味深かったです。

 

中村吉右衛門さんの存在感は然ることながら、翫雀さん、歌昇さんによる猩々の舞もとても良かったです。

 

また、僕がその日、歌舞伎を観ていて一番興味深かったことはパフォーマンスに於ける空気感でした。

 

そこには現代演劇や現代ダンスと比べて、随分ゆったりとした時間感覚と言うか、”間”が感じられたのです。

 

それは、単純に今の効率化、スピード化優先の社会ではない時代のものだから、

 

歌舞伎にゆったりした間があって良いということを言いたいのではなく、

 

そのゆったりしているが故に、その”間”の中に込められているものが、とても豊穣だなと感じたのです。

 

あの”間”は、観るというのとは違う体感感覚で味わうものですね、きっと。

 

舞台を観るのだけれど、目を見開いて、むしろ視覚をぼやかして観るというのかな、

 

そんな感覚になった時に、ぐにゃーって空間が歪んで、なんかふわーっと、

 

どこかに行けるような、そんな感じが個人的には面白かったです。

 

あの感覚は一体何のか?それにしても舞台に立ち会うというのは、目で観るとか、耳で聴くとか、

 

そんな五感だけで味わえるものではなく、とても奥深いものですね。