2015年

3月

17日

「聞こえない音」テキスト文

 週末の公演に向け、からだ学公演「聞こえない音」のリハーサルに熱が帯びてきました。


16日の晩は再びはたさん、佐久間さんと富田でリハーサル。三人のシーンが徐々に出来上がってきました。


そして、17日は本番会場となる茨木市のクリエイトセンター・多目的ホールで全体練習を行い、


この日で構成がほぼ決まりました。



序章/前説:伴戸、伴さんジュニア


第一章/大蛇:はた、佐久間、砂連尾  テキスト「対面」


第二章/ガムランもどき:はた、佐久間、砂連尾  テキスト「三人と交際する話①」


第三章/人生の重み:辻野、とぅーざ、伴戸  テキスト「音がやってくる」


第四章/足耳:のぶ、まつきよ、ささきよ、京子、ゆか、辻野、とぅーざ、伴戸


第五章/うらはらデュオ:のぶ、まつきよ  テキスト「世間に問う」、「裏腹ソング」唄:はた、とぅーざ 


第六章/階下の人:ささきよ  「フローリングが響く」唄:はた


第七章/ダンスバトル:のぶ、まつきよ、ささきよ、京子、ゆか、辻野、とぅーざ、伴戸  「ダンスバトル」唄:はた


第八章/別れのソロ:京子  テキスト「再生の話」


第九章/川崎家ダンス:川崎ファミリー、のぶ、まつきよ、ささきよ、京子、辻野、とぅーざ、伴戸  カホン:とぅーざ


第十章/トイレットペーパー:はた、佐久間、砂連尾+とぅーざ  テキスト「三人と交際する話②」


第十一章/佐久間さんと子どもたち:佐久間、会場内にいる子どもたち   音楽:横ちゃんバンド


第十二章/のびのびしたいんだ、おとなだって!:伴戸+はた、佐久間、砂連尾  テキスト「三人と交際する話③」


第十三章/耳ダンス:はた、佐久間、砂連尾を除く全員  「耳の歌」唄:はた


第十四章/全身耳:全員  テキスト「聞きながら」



14シーンに及ぶ流れを皆で確認しながら全体を把握していきます。


群舞の耳ダンスを含め、それぞれが宿題を持ち帰り、次回の最終稽古までは自主練です。


この日の晩、当日パンフレットに寄せる文を書いていると、本番に向けての気持ちが高まってきました。



「聞こえない音」—その作り方、演出について
 
 「聞こえない音」の作品作りに付いてですが、おおまかに言って、三つのチームに分かれて作業しています。


その三つのチームとは、伴戸千雅子さんチームに川崎歩さんチーム、そしてもう一つは私のチームです。


もちろん全体練習も行いますが、基本は三つのチームが荻野さんのテキストを元にそれぞれ自主練習を行い、


そこで生まれたものを持ち寄って一つの舞台を作ります。


なぜ、そのようなスタイルになったかというと、単純にそれぞれの生活のペースが異なるからです。


伴戸さんは昼間に親子で参加する人達を中心に練習を行っています。


川崎さんは昼間働いているので、家に帰って川崎ファミリーで練習しています。


そして、不定期にしかスケジュールの組めない私はやはり不定期に伴戸さんの練習場に顔を出したり、


時に、はたさとみさんの家にお邪魔してこたつを囲みながら練習したり、


ゲストの佐久間さんと夜のドライブで空き地を見つけて練習したりしています。


 この町で暮らし、この町で生きる、そんな一見当たり前のように感じていることを身の回りの人達と改めて見つめ直し、


生きていくことの豊かさを模索したいと思いスタートしたのが“みんなのためのからだ学”です。


そして、そのワークショップの延長に今回の公演があります。


集まっているメンバーは普段舞台とは関係なく暮らしている人が大半で、その生活スタイルもバラバラです。


ですから、あくまでも参加者一人一人の日々の生活を大事にしながら公演=祭り事を行ってみることが


何より重要だと私たちは考えています。


そういった中で私たちが選択した方法は、一人の絶対的なリーダーを置かず、お互いを尊重し、時に補い合いながら、


そして子ども達を排除しないパフォーマンスを作るということでした。


そうしたことが今回の三組のチーム編成へと至ったのです。


 それぞれの都合で全員集まってやれる練習は恐らく1、2回、それに小さなお子さんの様子は


当日になってみないと分からないという状況は公演としては確かにリスキーと言えるかもしれません。


出来るだけノイズを排除してきっちりパッケージングする近年の多くの舞台作品の作り方からすると


今回の私たちの試みは真逆な方法を選択しているといえます。


しかし、こういったリスキーな現場をメンバーで共有し、乗り越える為の対話、


それこそ今回のタイトルにあるように「聞こえない音」に耳を澄ましていくことが何より大切だと感じています。


なぜならそのことを繰り返していくことが、ここで生きるということやコミュニティーのこと、


そして、そのコミュニティーで暮らす住民、ひいては市民というものが


一体何なのかを考える場になるのではないかと私は思うのです。