イリュージョンの世界

 「巨人ニジガロ」—その言葉の響きが何だか不思議で、その本の名前はずっと忘れずにいた。その本と出会ったのは、確か私がまだ45歳の頃だからもうかれこれ半世紀近く前のことになる。寝る時の枕元に置いてあったその本を、私は「ニジガロ、ニジガロ」と母にせがんでは、読み聞かせて貰いながら眠りに就いていたことをよく覚えている。そして母に「ニジガロ」を読んでもらっていた思い出は、幼少の私にとって、とても夢心地で幸せな時間として刻印されている。けれど、その本がどんな内容で、母からどんな話しを聞かせて貰っていたのかは全くといっていいほど記憶に残っていない。

 既に処分していたその本を、今暮らしている街の図書館で見つけ、何十年ぶりかに手に取り読んでみた。それは漢族を始めとした中国の諸民族の民話集で、「巨人ニジガロ」はイー族の民話であることを今回知った。読み進めながら、こんな話しを母に読んで貰っていたのかという驚きと共にやはり内容に対する懐かしさは起こらなかった。それにも関わらず、色鮮やかでワクワクするような気持ちが「巨人ニジガロ」の思い出として私の身体に何十年も残っている。思うに、物語を理解して頭で想像の世界を膨らませていたというよりは、私の身体が意味に囚われる以前の幼少の身体であったことが、物語を語る母の声と相まってイリュージョンの世界を自由に飛び回れていたのだろう。そして、それはもしかすると母の声を通してかつてこの話しを語った誰か、それは誰でもない誰かの言葉、声に触れた瞬間だったのかも知れない。

 最近読んだ時は、面白いなとは感じたけれども残念ながら幼少の時に体感したイリュージョン一杯の世界に触れるまでには至らなかった。けれど歳を重ね、身体も動かなくなり、意識も朧げになったその時に、私は是非とも「巨人ニジガロ」を、それこそ声を出しながら読んでみたい。その最後の読書が私の身体をどこまで連れていってくれるのか、それを是非とも味わってみたいのだ。そして、自我の呪縛からも解き放たれたその時に、出来るなら私の傍らにいる誰かに「巨人ニジガロ」を読み聞かせてもらい、あの夢見心地だった頃と再び出会いながら踊るようにあの世に旅立つのも悪くないんじゃないかと思っている。

2017年5月 週刊朝日「最後の読書」掲載

ノムラの鍵ハモ

 グリム童話に「ハーメルンの笛吹き男」という話がある。その話はある男が笛を吹き始めると、家の中にいた子供たちが引き寄せられるようにして男の後を追い始め、彼らはそのまま町の外に出ていき、二度と帰ってこなかったという、ちょっと恐ろしい話だ。改めてその話を思い返してみると話の内容は確かに恐ろしいものだが、私の「ハーメルンの笛吹き男」から思い出されるイメージはその話の内容よりも、むしろその男から吹かれる笛の音の方で、それは童話の話だからその笛の音は実際には聴いたことがないのだけれど、頭の中で流れる笛の音はとても楽しげで、ついつい身体が動かしたくなるような美しい調べを勝手に夢想していたことをよく覚えている。

 そんな「ハーメルンの笛吹き男」ではないが、その音を聞いていると、ついつい身体を動かしてしまいたくなるような、そんな心踊る音楽を奏でてくれる演奏家に野村誠さんという音楽家がいる。彼は作曲家、ピアニスト、また鍵盤ハーモニカ奏者でもありその活動は国内のみならず海外20カ国以上でも活躍され、現在は日本センチュリー交響楽団のプログラムディレクターまで務めている。そんな彼と私は舞台を何度かご一緒させて貰う機会にも恵まれ、その度に私の身体は喜びで溢れとても幸せな音楽とダンスの時間を過ごさせてもらった。そんな彼の音楽の素晴らしさは実際の演奏にふれてもらうことにするとして、最近彼との間で起こった出来事を一つ紹介したい。

 それは先月2月の出来事。私の友人であるジャワ舞踊家の佐久間新さんと共同で開催している、共に老いて病を抱えた父親に向けたダンス会でのことだった。その日はゲストとして野村誠さんに来てもらうことになっていた。会当日、彼は鍵盤ハーモニカを片手に会場に現れ、両家からのリクエスト曲を演奏したりしながら、会の前半は終了した。彼の素晴らしい演奏で既に私の身体は喜んでいたからだろうか、後半開始直後、彼が突然始めた即興演奏に合わせて私の身体も自然と踊っていた。

 ひとしきり踊った後、私の身体は彼の鍵盤ハーモニカに導かれ、吸い寄せられるように父の身体へと向かい手を差し出していた。昨年の二度に渡る大きな手術の後、父の視力は随分と狭まり、ほとんど見えないにも関わらず父は差し出した私の手をしっかりと握りしめ、何と一緒に踊り始めたのだ。もちろん父と踊ったのはこれが初めてで、父がこんなにも楽しげに踊っている姿に接するのも初めてのことだった。

 その踊りをその側で見ていた佐久間さんもいつしか踊りの輪に加わりながら野村さんの鍵盤ハーモニカもどんどん加速。すると突然マイムマイムの音楽が流れ始め、ハーメルンの笛吹きよろしくノムラの鍵ハモは全開に!踊りの輪にどんどん人が加わり、気づいてみるとその場にいた参加者全員が輪になって踊っていた。そして演奏が終わっても、ハーメルンのお話しの結末とは正反対に、その場は皆の笑顔で埋め尽くされていた。

2018年3月29日 京都新聞夕刊「現代のことば」掲載

阿呆ダンス

 アフォーダンスという言葉がある。それは「与える」、「提供する」という意味の英語affordからきていて、アメリカの知覚心理学者ジェームス・J・ギブソンが作った造語だ。この言葉と出会ったのは確か学生時代、書店でこの言葉がタイトルに付いている本を目にし、それって一体どんなダンスの紹介本なのだろうと思って手にした。いざページを開いてみると、それはいわゆるダンスの本ではなく、当時の私にとっては何だか難解で、すぐ書棚に戻したことを覚えている。

 最近ある理由から、改めてその言葉の意味を辞書で調べてみたら「陸地の表面がほぼ水平であり、平坦で、十分な拡がりを持っていて、その材質が固いと判断されたならば、その表面は、我々の体を支えることをアフォードする。」などと記述されている。

 むむむ、言葉だけ読むと今でもやはり難解だ。恐らく動物や人と物、環境との間に存在する行為についての関係性そのものを言っていて、例えばコップの取っ手を見ると「持つ」という動作や、ドアノブの前に立つとノブを「握る」という行為が、その両者の間に生まれるということを言っているのだと思う、、多分。

 その言葉を調べるきっかけになったのは、昨年12月に京都市立芸術大学で開催されたアートミーツケア学会の講師を依頼されたことがきっかけだった。

このアート(art)とケア(care)が出会う(meet)学会の京都大会のテーマが「集団のアホーダンス」だったのだ。学会の冒頭では基調講演ならぬ「基調体操」が企画され、身体ワークを私が担当し、そのワークに対する哲学カフェを臨床哲学家の西川勝さんが担当することになった。

 全国組織の学会の冒頭で、しかもアフォーダンスをテーマとした体操をどうしたら良いのだろうかとチラシを眺めていると、そこに記載されているのは普段目にする「アフォーダンス」ではなく「アホーダンス」となっていた。そのことを企画責任者である京都市立芸術大学教授の高橋悟さんに伺ってみると、今回のテーマにはアフォードだけではなく阿呆を掛けてますからとの返答に、そういうことならば普段行わない体操をやってみようと思い立った。

 迎えた当日、私は二つの体操を試みた。一つ目の体操は、10人一組になって仰向けに寝転んでいる一人を他の9人が頭上の高さまで持ち上げるという体操。二つ目は、会場に設置されていたドイツ人作家の美術作品である「危険な遊具」という高さ約7m、幅約15mほどの巨大建造物を30人ほどで持ち上げて運ぶという体操。参加者の大半が医療や福祉の現場の方々、研究者の方々だったので私の提案に最初は驚きや戸惑いの表情を見せていたが、いざ始めてみると参加者同士、声を掛け合い嬉々としながら体操に取り組んでくれた。

 そうして体操と称した私の無茶ぶりに取り組んだ参加者の間からはいつの間にか阿呆がアフォードされ、皆でその阿呆を楽しんでいると最後には体操が生き生きとしたダンスへと生まれ変わっていた。

2018年1月31日 京都新聞夕刊「現代のことば」掲載

蛙と蛇のダンス会

 親友であるジャワ舞踊家の佐久間新さんと夜のドライブをするようになったのはいつの頃からだろう。共通の知人である音楽家の野村誠さんから彼を紹介されたのは7年ほど前だった。佐久間さんとはダンスの出自は異なるもののダンスに対する考え方やお互いの活動に意気投合し、知り合って直ぐに仲良くなり、お互いのことを蛙さん蛇さんと呼び合うようになった。年齢が近いということもあったが何より二人とも話し好きということもあって何かと用事をみつけてはちょくちょく会うようになり、気づいたら佐久間さんは仕事帰りに我が家の近くを車で通るからちょっとドライブでもしませんかと誘ってくれるようになっていた。そんな彼との恒例のドライブで、佐久間さんがお互いの父親に向けたダンスの会をやりませんかと言ってきたのは夏の夜のことだった。

 昨年からドライブではダンスのことだけでなく、お互いの父親の話題が頻繁に出るようになっていた。二人には老いて病を抱えた父親がいる。私の父は昨年癌を患い、また八十を超えた佐久間さんの父はこの夏から週三回の透析治療が始まっていた。そんな状況をよく語り合っていただけに私は彼の提案に是非とも!と即答した。早速その話しを父にしたら、父だけでなく母もとても喜んでいた。そして、父親に向けたダンス会は1111日午後1時から開催することとなった。

 11月に入り、会には来日中の佐久間さんのインドネシア留学時代の先生であるダルニ・ユッタ、通称ウニさんが参加してくれることになった。会の話しを佐久間さんから伝え聞いたウニさんは冒頭に祈りの舞を披露すると申し出てくれたのだ。また、9月に私が札幌で出会ったマレーシア人のライターであり劇作家のレオウ・ピュアイ・ティンさんにこの話しを何気なくメールでしたところ滞在先の神奈川から是非とも駆けつけたいとの返事が返ってきた。父へのダンス会は一気に国際色豊かな場になっていった。

 私は目が見えにくくなっている父のために何か歌を一緒に歌えたらなと思っていた。そのことを佐久間さんに伝えると“じゃあ一緒に歌を作りましょう。何か言葉をください、そうしたら僕と仲間で作曲してみるから”と言ってくれた。彼の言葉に私は父への思いを一気に詩に託し、携帯から送った。送ったその日の晩、私の詩は早速ユニークなガムラン風なメロディーとなって戻ってきた。佐久間さんはその曲を奈良県にある障がい者のアートセンターである「たんぽぽの家」の利用者である障がい者とそこで働くスタッフと一緒になってメロディーを作ってくれたのだ。

 “蛙の親に蛇の親 ゲコゲコニョロニョロ 肩を叩いて肩を揉む トントンダンスにモミモミダンス はーいはい Hey! Hey! 見えないは見える 見えないは感じる 見えないは聴こえる 見えないは触れる 見えないは飛べる 見えないは溶ける 見えないは拡がる 見えないはダンス 編み目を変える 模様を変える 空気を変える 親子を変える 親子は変わる 蛙は蛇に 蛇は蛙に”

 歌が完成した。本番が1週間後に迫っていた。

2017年11月30日 京都新聞夕刊「現代のことば」掲載

身体の変わり目

 今年の8月から太極拳を習い始めた。昨年、父が大病をしてから心がふわふわと落ち着かないことが度々あったので、先ずは身体を落ち着かせる為にも何か新しいことにアクセスしてみたいと思っていた。そんな矢先、ダンサーで太極拳を習っている友人と偶然京都の劇場で遭遇し、これも何かの縁だと思い先生を紹介してもらい、その翌週には稽古に参加させてもらった。

 稽古は、基本の立ちポーズから始まり準備運動と気功を1時間近く行ったのだが、これが思った以上に脚にこたえた。そんなに激しい運動をしている訳でもないのに太ももがプルプルと震えだす。私はダンス以外にもヨガや合気道の稽古も行っているが、腰の入れ方や脚の使い方が違うだけでこんなにも身体がびっくりしてしまうものかと驚いた。でもその驚きは、心地良い時間でもあった。

 その後に行った太極拳の型はとても柔らかで合気道やヨガとはまた違う発見があり、その中でも特に新鮮だったのは、太極拳の型に集中していると時間の感覚がいつもとは変わることだった。ゆっくりと動きながら時間が細かく割れると言えば良いのだろうか。いつもの1秒よりもゆっくりと分割して1秒を味わえているような感覚で、まるでスローモーションな時間の中に身を置いているようだった。初回の僅か一回の稽古ではあったが、身体の使い方を少し変えるだけで身の回りの世界は大きく変化し、心もどこか落ち着いているように感じられた。

 父のことがきっかけで何気なく始めてみた太極拳だったが、思い返すと私は今回のような人生の節目で新たな身体技法にアクセスすることで感受する世界を広げ、しんどい局面を乗り越えてきたように思う。

 どうやってダンスを続けていこうかと悩んでいた30代に出会ったアレクサンダーテクニックからは、身体と意識の関係、その視座が大きく開かれた。そして、それまでのダンスに行き詰まりを感じ始めた40代で始めた合気道からは、他者と関わること、力を抜くということから自分の身体と意識をそれまでとは違う次元で考察し始めるようになった。

 また合気道を始めた時と同じくして出会った障がいを持つ方々の身体は、私のダンスの可能性を大きく切り開いてくれることとなった。車椅子の方とのダンスからは椅子の目線になることで見えてくる世界の多様さを、義足の方とのダンスからはそれまで感じ得なかった時間の豊かさを教えて貰った。

 人生の節目に訪れる様々な出来事に直面すると、それまでに培った智恵や経験では対応出来ず身体も心も揺れて大変だったりもするが、もしかするとそんな時こそ身体の変わり目なのかもしれない。今回出会った太極拳からも私は新たな見方、感じ方をインストールし、身体をマイナーチェンジしながらこれからの人生、ダンスを豊かにしていきたい。

2017年9月27日 京都新聞夕刊「現代のことば」掲載

メタモルフォーゼ

  昨年の11月、リハーサルを終え、神戸から自宅に戻る電車の中、携帯にメールが届いた。知らせの主は父だった。『食道がんの疑い』メールのタイトルに目を疑った。私は激しく動揺しながら、父からのメールを何度も見返した。

 1週間後、精密検査の結果、父は医師から正式にがんの宣告を受けた。日本人の二人に一人はがん患者、そんなことは知ってはいたが、我が家には無縁だと何となく思っていた、いや正確に言うと、そう願っていた。それなのに、その日から父はその二人のうちの一人となり、私たち家族の日常は父の入院する病院へ通うという生活へとガラリと変わった。

「調子はどう?今日も良い天気だね!」

 病室での父と、この後の会話がなかなか続かなかった。思えば、学生時代に実家を出てからというもの、この30年ほどは盆暮れ正月以外はほとんど家に戻ることもなく、たまに掛かってくる電話も用件が済めば直ぐに切るか、そうでなくとも話し込むことはほとんどなかったのがそれまでの父と私の関係だった。

 さてどうしたものかと思った或る日、元来人のことを根掘り葉掘り聞くことが好きな私は、その癖を父にぶつけてみることにした。その日は父の幼少のころから始まり、父と母との出会いをベッドの傍らで聞かせてもらった。「へー、そんなことがあったんだ」と私は父の話しに聞き入っていた。それから見舞いに訪れる度に私は父へインタビューをした。そんな時間を父も楽しんでくれたのか、その時は思い出せなかった私の質問の答えをメモに書き出しておいてくれたり、また或る時は父の姉にわざわざ電話を掛けて調べてくれたりしながら、それまで聞くことがなかった話しを色々と聞かせて貰った。

 そうして入院から2か月余り、手術を直前に控えた頃、病室は取材部屋へと変わり、いつしか父と私はインタビューを通して父の物語を一緒に紡ぎあう関係になっていた。

 その後、父は2度に渡る大きな手術を経験したからだろうか、なにかある度に「ありがとう」と発する最近の父の言葉は妙な説得力を持って私の身体に届いてくる。言葉と身体が一体となったそんな境地を、最近の父は生きているかのように見える。病室を共に訪れた妻が父を見て言った、「いろんなものが剥がれ落ちて生まれ変わったみたいやね」と。

 生老病死の老と病には確かに生きていく上での苦悩があるには違いないけれど、老いて病を得ることで成長とは異なる尺度の変化が人間にはあるのかもしれないと思えた。

 ケアする、される関係を経て父のがんは私たち親子の関係を新たなレイヤーへと運んでくれ、そして変身するような身体の地平が存在するのだと、今の父を見ていると思えて、自分が老いることに少し希望が持てた。

2017年8月9日 京都新聞夕刊「現代のことば」掲載